「放散虫革命」って何? と思われた方は、ぜひ読んで下さい。
それは、今をさかのぼること、20年前。すでに過去の出来事になったとはいえ、地球科学史上に残る変化の時期でした。たった1mmにも満たない“ムシ”が、日本列島の歴史をかえてしまったのです。

その時、私ことおつぼねは何をしていたか。ハイ、“革命”の渦中におりました。
そこで、私が福井県における放散虫革命の様子を生々しく再現させていただきました。
長くなりましたので、8つの章に分けました。ごゆっくりどうぞ。

1.プレート・テクトニクス理論の登場と新しい地球観   

2.くいちがう二枚の地質図の謎 

3.紡錘虫化石全盛時代 

4.海底地すべりによる堆積岩相の存在 

5.放散虫革命起こる 

6.放散虫化石が活躍するまで 

7.南から移動してきた南条山地(付加体モデルについて) 

8.南条山地は日本列島のおいたちを解く鍵! 


1.プレート・テクトニクス理論の登場と新しい地球観 

 地球科学earth science)分野での最近30年間の研究の進展は著しく,地球科学者たちの地球観は一新され,一般の人たちの地球科学に対する関心も高くなりました.特に地質学―現場を歩いて地層の積み重なり方やその時代を明らかにし,当時の環境やその地域のおいたちを調べる学問の分野においては,泥臭い・やぼったい印象の学問から,明るい・スマートな学問になり,お茶の間にも登場するようになりました.このような変化が起こった一番の理由には「プレート・テクトニクス(plate tectonics理論」の登場が揚げられます.


 この理論は「厚さ約100kmの硬い板(プレート)がジグゾーパズルのように十数枚組み合わさって地球の表層を覆い,それらが年平均110cm程度の速さで相互に運動し,衝突したり,離れたり,横ずれしたりしている」というものです.この理論により,従来バラバラに説明されていた火山活動や地震の発生や大山脈の形成などを,プレートの運動によって起こる一連の現象として総合的に説明できるようになりました.プレート・テクトニクス理論の登場は地球科学史においては革命的な出来事でした.


 プレート・テクトニクス理論の登場以来,日本列島のおいたち論の見直しが始まりました.しかし,日本列島の地史を変えるには,もうひとつ重要な“役者”が必要でした.それが体長 0.2mm程の微小なプランクトンの仲間「放散虫」です.1980年代前半には,「プレート・テクトニクス理論」と「放散虫化石」と「古地磁気測定」よって,日本列島のおいたちは完全にぬり変えられてしまいました.


 このような地球観の変化の時代に,福井の地質はどこまで解明され,地史はどう新しくなったのでしょう.地質には恐竜のような派手さがないためか,ちまた(巷)では話題になりません.しかし結論から言えば,福井においても地質図がすっかり変わるほどの,大きな発見や研究成果が得られています.
 特に
南条山地と呼ばれる地域(南条郡を中心に広がる標高数1001200mの山地部で,かつて「地向斜相古生層」とよばれた海成の地層が主に分布する)では,三つの重要な研究成果がありました.


 それらは@地質構造学的な研究成果,A微化石すなわち放散虫化石の研究成果,B古地磁気による研究成果です.@とAに関してはわたくしも深く関わっているので具体的に紹介します(以下“私たち”とは筆者をも含め,福井大学地学教室の教官や学生たちを指します).

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 2.くいちがう二枚の地質図の謎

 いくら地質学がスマートになったとは言っても,やはり「地質屋はハンマーを持って野外に出かけ,データを集めて話を組み立てる」というスタイルは変わりません.地層や岩石の分布状態を地形図に記入しながら調査するのですが,日本では通常基盤岩は表土におおわれているので,その表土が削り取られている切り通しの崖や林道沿いを中心に調査します.最悪の場合は沢を一本一本登りながらの調査になります.
 しかし,完全に調べ尽くすことは不可能で,最後はどうしても机上での作図とならざるを得ません.その際,同じフィールドを扱っていても当時の学問の進み具合や研究者の考え方により出来上がる地質図が異なることはよくあります.このことを南条山地を例に示します.


 地質図A(クリックしてください)1969年に発表された南条山地の地質図です.この図では,地質の主体は古生代二畳紀(約2億40008000万年前)の堆積岩であり,多数の断層で切られています.一方,地質図B(クリックしてください)1986年に公表された同じ地域の地質図です.堆積岩の時代は中生代ジュラ紀(約1億4000万〜2億年前)です.そして断層はほとんど無く,いろいろな種類のブロック状岩体が書き込まれています.なぜ,同じ場所の地質図がこれほどくいちがうのでしょう.

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 3.紡錘虫化石全盛時代

 南条山地では,泥岩層の中にいくつものブロック状の石灰岩が散在しています(例えば,今庄町芋ケ平の連如上人遺跡の石灰岩).ブロック状の石灰岩と言っても時には小山ほどの大きさのものもあります.
 地質図Aが公刊された当時,この地域で産出する化石としてはこのような
ブロック状石灰岩中の紡錘虫(クリックしてください)(フズリナとも言い,古生代末期には絶滅した生物です.主に石灰岩中から産出します)だけが頼りでした.そしてその紡錘虫が示す年代をその周囲の地層全体の地質時代と見なしました.例えば芋ケ平の石灰岩に含まれる紡錘虫の年代は古生代二畳紀なので,その周囲はすべて二畳紀の地層であると解釈されたのです.


 このように,南条山地に散在する石灰岩中の紡錘虫は主に古生代二畳紀のものであったため,南条山地の地層の堆積時代は古生代であるとされました.このことは中国の故事「群盲象を評す」を連想させますが,当時はだれも疑いませんでした.
 それどころか,紡錘虫化石はその複雑な内部構造により,化石の断面でも種名を決めることができた(すなわち時代を特定することができた),最も重要な“証拠品”だったので重宝がられ,この時代の地層を研究する者は,みなこの石灰岩を探し求めました.
 時にはとなりあった石灰岩であっても,含まれる紡錘虫の示す時代が数千万年も異なるということもありました.しかし,このような場合は,それらの石灰岩の間に断層があると解釈することで説明しました.

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 4.海底地すべりによる堆積岩相の存在

 ところで南条山地には海に堆積した砂岩や泥岩の他に,チャート(緻密な珪酸質岩石,珪石・火打ち石とも呼ばれます)や石灰岩や緑色岩(大昔の海底火山岩)が分布しています.これらの岩石類は,一般に地層として連続性のあるものであれば地層の延びている方向に露出しているはずです.しかし,南条山地ではこのような教科書的法則は当てはまりません.わたくしはそんなフィ−ルドを歩くことになり,ほとんどすべての沢を登って岩石の分布状況を調べました.


 その結局,調査したフィールドではチャートや石灰岩や緑色岩は不連続であることがわかりました.かつての解釈であればたくさんの断層が引かれます.しかし野外では明瞭な断層跡もありませんでした.
 地層がつながらない部分に断層を引くということは,本来地層は連続しているべきであるという仮定があるからです.しかし発想を変え,もともと(堆積時から)連続してはいなかったと考えるとどうでしょう.つまり,石灰岩やチャートや緑色岩は泥岩層中に含まれる大きな礫であると解釈するのです.そう考えれば複数の時代のいろいろな岩石が雑多に含まれていても不思議ではありません.


 外国の論文ではすでに海底地すべりによって形成される地質体が紹介されていました.大陸斜面上の堆積物が,海底地滑りによって古い時代の岩石を取り込んで移動し再堆積するという考え方です.これを南条山地の調査したフィールドの地質に当てはめると,抵抗なくその地質構造が解釈できました.現在の海洋では大小の海底地すべりがかなり頻繁に発生していることも報告されています.南条山地の地層の少なくとも一部は海底地すべりによって形成されたものであることが明らかになりました.

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 5.放散虫革命起こる

 さて,第二の研究成果は中生代ジュラ紀の放散虫化石の発見です.放散虫は体長 0.2mm程の浮遊性プランクトンの仲間で,6億年前頃に地球上に現れ,その子孫は現在も海でくらしています.珪酸でできたその殻にはスナック菓子を想像させるものや十字の手裏剣型などいろいろな形があります.また殻の表面には見事な彫刻のような模様があり,この模様が種類によって異なり,それで時代を決めることができます. 


 福井県における最初の中生代放散虫化石は伊藤・松田により1980年7月に報告されました.それ以来地元の福井大学地学教室が中心になって精力的に調査が進められました.処理された岩石試料は約50000個,そして40000枚を越える放散虫化石の電子顕微鏡写真が撮影されました.それらはひとつひとつに番号が付されファイルされ,それらに関するデータは大型コンピュータに保管されました.南条山地の地質に関する報告も1980年以降急激に増加し,40篇に達しています.


 地学教室で中生代の放散虫が最初に撮影されたのは1979年秋であり,その試料は武生市下別所産の赤色チャートでした.中生代三畳紀の放散虫ではありましたが,当時はまだ化石種名は不詳でした.
 そして翌年には,ついに中生代ジュラ紀の非常に美しい放散虫化石が電子顕微鏡で撮影されました(クリックしてください).今庄町湯尾西方に位置する小さい沢に露出する青緑色のチャート(珪質泥岩)から処理されたものでした.最初はジュラ紀の放散虫が産出すると狂喜乱舞しましたが,そのうちにだれも驚かなくなりました.それは,あまりにも多地点よりあまりにも多数のジュラ紀の放散虫が出てきたからです.


 このように続々と産出する中生代の放散虫化石により,それまで古生層と信じられてきた南条山地の地層がすべて中生代の地層であることが判明しました.しかも驚くべきことに二畳紀の紡錘虫を含む石灰岩の近くのチャートからは三畳紀の放散虫が,また周囲の泥岩からはジュラ紀の放散虫が発見されたのです(クリックしてください).南条山地の地質の主体が中生代ジュラ紀の地層であると発表されたのは1981年のことでした.最初の中生代放散虫の発見からわずか2年間に南条山地の地層の年代は何と約7000万年!も若返り,地質図はすっかり塗り変えられてしまったのです.


 1980年代初めの地質学会は放散虫化石で沸き返っていました.そしてこの微化石によって非常に短期間に日本列島のかつての「地向斜相古生層」は全て「中生層」に改められ,それまで考えられなかったことがたくさん分かってきました.そのためにこのような状況を「放散虫革命」とよんでいます.

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 6.放散虫化石が活躍するまで

 時代決定にこれほど有能な放散虫化石がなぜ今まで研究されなかったのか,不思議に思う方も多いでしょう.これには次のような理由があります.放散虫は主にチャートや珪質泥岩という岩石に含まれています.そして放散虫は非常に微細な化石なので肉眼では識別不可能で,これを研究するには,かつては光が通る程すり減らした岩石薄片にして顕微鏡で観察(クリックしてください)する方法しかなかったのです.


 しかしチャートは地表に普通にある岩石としては最も硬く,薄片を作成するには多大な労力がかかり,しかも断面でしか観察できなかったので化石種まで議論するには説得力に欠けていました.それで,1930年代には日本でも一時は放散虫化石による時代論が持ち上がりましたが,前述の理由ですぐに放散虫は役立たずの化石として隅に追いやられてしまったのです.


 ところが,1960年代後半になると海洋底探査が進み,海底堆積物の連続した試料から多くの放散虫化石が報告され,現世から中生代白亜紀頃までの放散虫の研究が飛躍的に進みました.すると放散虫の殻の模様は地質時代とともに変化し,放散虫は地層の時代決定に非常に有効であるということが明らかになったのです.


 そんな折,放散虫化石の薬品による処理が偶然発見され,硬いチャートからも簡単に個体として取り出すことができるようになりました.さらに走査型電子顕微鏡の普及とあいまって,立体的な美しい殻の模様(クリックしてください)が手軽に観察・撮影できるようになりました.おまけに電算機の発達により,膨大な数の微化石データを処理することも可能でした.
 しかも放散虫化石は,南条山地をはじめ,かつての「地向斜相古生層」に最も広く分布するチャート・珪質泥岩・泥岩に含まれていて,紡錘虫よりずっと広範囲の岩石や地層の時代を決めることができました.このような好条件が重なって,中生代の放散虫化石に関する研究はアッという間に進展したというわけです.  


 現在,南条山地から産出した中生代の放散虫化石はすでに600種類を越えています.中には種名にスティコカプサ ナンジョウエンシス( Stichocapsa nanjoensis )と,南条山地にちなんで命名された放散虫もあります.南条山地で得られた代表的な放散虫化石の走査型電子顕微鏡写真を年代順に並べてみました(クリックしてください)

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 7.南から移動してきた南条山地(付加体モデルについて)

 私たちが調査してきた南条山地の地質と放散虫化石の特徴は今のところ次のようにまとめることができます.@南条山地の地質は,海に堆積した砂岩・泥岩・チャート・緑色岩・石灰岩から構成される.A大部分の石灰岩は古生代二畳紀の紡錘虫を産す.Bチャートは主として二畳紀や三畳紀の放散虫を産す.C泥岩は中生代ジュラ紀の放散虫化石を産す.D古生代の石灰岩やチャートや緑色岩は泥岩中の礫である.


 以上の事実より次のような解釈が可能です.現在の太平洋を頭に描いてみましょう.古生代二畳紀から三畳紀にかけて,海底火山の活動によって形成された海山(緑色岩)の周囲に形成された石灰岩,そして放散虫や非常に細かい泥が堆積してできたチャートや珪質泥岩が,陸から遠く離れた海洋に生成しました.それらはプレートに乗って移動し,陸に近づくにつれ,陸から運ばれてきた泥がチャートや石灰岩や緑色岩の上に次第に堆積しました.この頃時代はすでに中生代ジュラ紀(大陸には恐竜がいた時代です)であり,当時の海に生息していた放散虫の死骸が泥岩に取り込まれました. 


 さらに大陸の端にくるとプレートのもぐり込みが起こり,その上に乗っていたチャートや石灰岩や緑色岩は,はぎ取られたりあるいは海底地滑りにより,切れ切れになって陸からの砂や泥と混ざったり,何回も折り畳まれたりして陸側に付加して南条山地が形成された…というシナリオです.海洋プレートに乗って移動してきた堆積物が沈み込み帯で底付けされ,陸域が成長していったという仮説を「付加体モデル」といいます.


 実際,第三の研究成果として揚げた古地磁気の研究によれば,南条山地に分布する緑色岩は2億数千万年前には赤道付近にあったということがわかっています.それがプレートに乗って北上し,アジア大陸の東端に衝突し横ずれを起こしたという考えです.そのときの痕跡が現在の吉野瀬川付近だと思われます.
 吉野瀬川は武生市丸岡−沓掛−勝蓮花を東進し武生の平野に注いでいます.この河川の南側(南条山地)と北側とでは中生代白亜紀以前(約6500万年以前)の地質が大きく異なっています.すなわち吉野瀬川以南には大陸性の基盤岩は分布せず,放散虫化石を産する海洋性の中生代の地層が分布し,一方,北側には恐竜や植物化石を産する手取層など大陸棚(陸の一部である)や湖に堆積した大陸性の中生代の地層が分布します.

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 8.南条山地は日本列島のおいたちを解く鍵!

 付加体モデルを用いた解釈は,南条山地と同じような中生代の地層が分布する地域(かつては古生層と信じられていました)ではしばしば主張されています.しかし,新しい野外事実が判明してくれば,このモデルも修正されることでしょう.今私たちが注目しているのは,放散虫化石を産しないチャートです.放散虫化石を産するチャートは確かに遠洋性のチャートかもしれません.しかし,放散虫を産しないチャートの起源に関しては今も解明されてはいません.


 堆積後チャートに変わっている砂岩・泥岩層が,今庄町藤倉山の林道沿いで発見されました.砂岩や泥岩などの堆積岩がそっくりチャートに置換される現象は本邦では初めての報告です.砂岩や泥岩が,ある条件下で簡単にチャートに変わるとすると,放散虫化石を含まないチャートの中には砂岩や泥岩起源のものがあるかもしれません.するとチャートのすべてが遠洋性であるとは断定できなくなり,遠洋からプレートに乗って云々…というモデルは単純すぎることになります.幸い南条山地には放散虫を産するチャートと産しないチャートの両方が分布し,同山地はこのような疑問を解決するための良好なフィールドです.


 また,付加体モデルでは,その形成過程上,下方に積み重なっている地層ほど新しい時代のものであるはずですが,南条山地では,ジュラ紀中頃の地層の下位にはジュラ紀はじめに堆積した地層が分布しています.この事実は付加体モデルに反することになります.南条山地では何が起こったのでしょう.近い将来,福井県南条山地から日本列島のおいたちを説明できる新しいモデルが生まれるかもしれるかもしれません.(完)

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